旧正月三が日も過ぎ、街が平静を取り戻したある夜のことだった。一緒にテレビの料理番組を見ていたエヴァは、小腹がすいて思わず口にした私の「芝麻糊(ちーまーうー)、食べたいなぁ」という小さなつぶやきを聞きつけ、急にそわそわし始めた。
エヴァは、私がホームステイしていた温(ワン)家の4人姉妹の3番目。姉妹の中ではいちばんののんびり屋だがひどく世話焼きで、私のつぶやきを聞いた彼女の頭のなかでは「日本人がこれを食べたいのなら作ってあげなくちゃ」と、親切回路が直結してしまったらしい。すでに10時を回っているというのに、彼女は突然食料庫から黒ゴマを取り出し、お汁粉を作り始めた。
日本同様に、香港ではお汁粉に似た甘いデザートをよく食べる。芝麻糊は黒ゴマをすってペースト状にしたお汁粉。色は濃い灰色をしていて、その名の通り、ドロリと糊のような食感。医食同源がごく日常的な香港で、このデザートは身体を温め、黒々とつややかな髪を作るといわれ、万人に人気がある。
スーパーや市場にはお湯を入れるだけで出来るインスタントのお汁粉がいくらでも出回っているが、香港の一般家庭では、黒ゴマのお汁粉といったら、実は手作りが基本。市販品と、味がまったく違うのだ。
日本では袋入りの「洗いゴマ」や「煎りゴマ」が普通だが、香港でゴマは生。これを水でジャージャー洗うところからすべては始まる。ゴマをペースト状にするにはミキサーも使うが、基本的に手作業の繰り返しで、なにしろ手間と時間がかかる。
香港でホームステイを始めてからずっと、家族の誰かがキッチンに立つたび、私はノートを持ち、彼女らにぴったり寄り添い、教えてもらったレシピを書き留めてきた。知らない食材の名はその場で書いてもらって覚え、後日、市場で復習するのが日課。そんなだから覚えた広東語のボキャブラリーは、そのほとんどが食材の名前である。
その日も例外ではない。小さなノートを抱えてエヴァに寄り添い、黒ゴマのお汁粉づくりを手伝うことにした。
香港の若い世代はほとんど英語で授業を行う学校に通うことが多く、半数以上は英語でのコミュニケーションが可能だ。しかしエヴァは、小さい頃から中国語の学校へ通った少数派で、英語をまったく喋らない。彼女との会話は、だからすべてが広東語である。キッチンで困ることはなかったが、問題なのは日常的なよもやま話のほう。
「音楽はすき?」。黒ゴマを洗いながら、エヴァが言った。ボウルの水は、みるみる黒く濁ってくる。「まあまあかな」。私。エヴァが続ける。「私はね、さんはうぱっうぇい」がすき。「ふーん」。香港アイドルにはほとんど興味がないので、私の返事は上の空。
「彼女、知ってるでしょ?」とエヴァ。残念ながら私の答えは「知らないよ」。ところが、エヴァがいうには、さんはうぱっうぇいは、日本人歌手らしい。あいや、またパズルゲームの始まりか。
「さん」は「新」か「山」だろう。「はう」、そうそう「はう」は「口」か。顔をしかめて悩む私を見て、エヴァは「昔の歌手だよ」とヒントを出す。そうか。わかった、山口百惠だ。「そうそうそう」。漢字を書いたノートを覗き込んで、彼女が笑った。
この日、彼女が話題にした他の日本人歌手は「じゃうぜんふぁっじー」と「こんたんちぇんひょん」、そして「ちゅんとうめいしゅっ」だった。いずれも香港で非常に人気がある歌手だ。もちろん日本でも大変に有名である。この読み仮名を聞いて、その歌手の名を想像できるだろうか。
答えは……、じゃうぜんふぁっじー=酒井法子。こんたんちぇんひょん=工藤静香。ちゅんとうめいしゅっ=中島美雪。日本では「中島みゆき」だが、ひらがなのない香港では「中島美雪」と表記される。

ちーまーうー
手作り「ちーまーうー」でおすすめのお店
糖朝(とんちう)
尖沙咀(ちむさあちょい)にあり、老若男女、結構訪ねやすい。基本的に地元客であふれてる。書籍や雑誌でも有名。頼めば日本語メニューも出してくれる。
鵞記(んがうげい)
廟街(みうがーい)にあり、屋台に毛が生えたようなお店。衛生的なこととか、旅の安全とか考えたら、誰にでもおすすめできる地域ではない。
旅行者にはよくわかんないらしいけど、実際、香港の黒社会の若い構成員とかを見かけることがよくある。こういう情報は、恐いと強調しすぎてもいけないし、いっておかないと油断させちゃうしで、なんだかむずかしい。